ディベースメント取引とは何か──金利とゴールド・ビットコインが同時に上がる

2024年10月、JPモルガンのフローレポートが、ゴールドとビットコインへの同時の資金流入をひとつの名前で呼びました。 ディベースメント取引(debasement trade)、すなわち法定通貨の価値が財政と金融政策によって薄められていくことに賭け、供給を勝手に増やせない資産を買うポジションです。 この呼び名は半年もしないうちに市場の常用語になりましたが、名前が広まる速さと、名前に込められた診断が正しいかどうかは別の問題です。 本稿では、命名のきっかけになった2024年秋の値動きを追いながら、この診断がどこまで確かめられたのかを測ります。

説明のつかない値動き

2024年9月18日、FRBは50bpの利下げでサイクル入りしました。 ところが10年債利回りはそこから上昇に転じ、9月中旬の3.6%台から10月末には4.3%近くまで駆け上がります。 利下げの開始と同時に長期金利が上がる形は、市場が金融政策の先行きではなく、インフレや財政のリスクを値付けし始めた合図と読まれました。

もっとも、金利の上昇そのものには平凡な説明が付きます。 10月初めに発表された雇用統計が予想を大きく上回り、市場が「この先の利下げは減る」と読み直したためで、大半は景気の強さによる普通の調整です。 ここまでは、謎ではありません。

同じ期間、ドル高も進んでいました。 金利が上がり、物価の見通しがそこまで上がっていないとき、物価上昇の分を差し引いた実質的な利回り(実質金利)が上がります。 実質金利の上昇とドル高は、教科書ではゴールドの逆風です。 利息を生まないゴールドを持つより、ドルのまま利回りを得るほうが有利になるからです。 しかしゴールドは史上最高値の更新を続け、10月末に2,780ドル前後を付けます。 ゴールドETFとビットコインETFには同時に資金が流入していました。 逆風のはずの環境で、通貨の代替になる資産だけが買われ続けていたことになります。

命名が定着した背景には、材料の集中もあります。 大統領選を控え、どちらの候補の公約も債務を大きく積み増す試算でした1。 9月末に締まった2024会計年度の財政赤字は約1.8兆ドル、GDP比6.4%で、景気後退でも戦争でもない平時の水準としては突出しています。 10月下旬にはロシア主催のBRICSサミットが非ドル決済を議題にし、選挙後にはビットコインが11月に9万ドル、12月に10万ドルに達しました。 財政と通貨をめぐる見出しが途切れなかったことが、呼び名の流通を後押ししています。

謎はこうして、金利の側ではなく、「金利が上がるのになぜゴールドも上がるのか」の後半、ゴールドの側に絞られます。

通貨への不信という答え

JPモルガンの命名は、この謎への答えを兼ねていました。 ゴールドが買われ続けたのは、「ドルを持っていても、財政の穴埋めのために価値を薄められていくのではないか」という通貨への不信のためだ、という答えです。 この不信が広がると、ドルや国債を持ち続ける理由が減り、価値を薄められないゴールドと、同じ性質を持つビットコインへお金が動きます。 金利という逆風のなかでゴールドが買われ続けたのは、金利より大きな心配が生まれたからだ、と説明できます。 そして冒頭の定義のとおり、この不信に反応して薄められない資産を買う行動こそが、ディベースメント取引です。 つまりあの命名は、資金の流れに貼った単なるラベルではなく、「あの相場は、通貨への不信が動かした」という診断でした。 金利とゴールドとビットコインのバラバラに見えた動きが、不信を一つ置くだけで繋がります。 これがこの診断の魅力です。

金利に敏感なはずの欧米のETF投資家までが、2024年後半に買い越しへ転じたことは、この診断を支えます。 利回りと比べてゴールドを持つかどうかを決める人たちが、金利が上がるなかで買い始めたのなら、金利以外の何かを織り込んだと考えるのが自然だからです。

ゴールドの買い手が変わったという対抗解釈

しかし、ゴールドの上昇を通貨不信の証左と読むのは早計です。 買い手そのものの入れ替わりという、不信を持ち出さずに済む説明があるからです。 ゴールドの「実質金利が上がると下がる」という性質は物理法則ではなく、そのとき価格を動かしている買い手が誰かで決まる経験則です。 2010年代にこの関係が成立していたのは、価格を動かす買い手が欧米のETF投資家、つまり金利に敏感な主体だったからです。

2022年にロシアの外貨準備が凍結されると、この構図が変わりました。 凍結を見た新興国の中央銀行が、外貨準備のドル比率を下げる目的で、ゴールドを年1,000トン規模で買い続けるようになります。 その動機は「ドルはインフレで減価する」ではなく「ドル資産は凍結されうる」で、金利の水準とは無関係です。 中国では不動産不況で家計の貯蓄先が細り、個人のゴールド購入が急増しました。 どちらも、金利を見て売買しない買い手です。

価格を動かす買い手が、金利を見ない主体に入れ替わっていたなら、金利上昇とゴールドの高値の同居は矛盾ではありません。 数年がかりの構造変化という遅い過程の上に、強い指標と選挙という「金利が上がって当然の出来事」の速い過程がたまたま重なり、同じ画面に映っただけです。 買い手が金利に敏感だという従来の枠組みを頭に入れたまま見るから矛盾に見えるのであって、需要曲線がずれたと考えれば、通貨の信認という大きな話は要りません。 この解釈は、希薄化に備えてゴールドを買う投資家がいること自体は否定しません。 否定しているのは「あの相場の主役がそれだった」という診断のほうで、買いの事実は同じでも動機が違うなら、あの秋の相場にディベースメント取引という名前を付けたこと自体が誤診だったことになります。

ドルからの退避という共通項

どちらの説明が正しいのかは、まだ決着していません。 2024年秋のデータは両方と矛盾せず(金利を見ない中央銀行の買いも、金利に敏感なはずのETF投資家の転換も、どちらも事実です)、その後の値動きも決め手を欠いたままです。

ただ、一段引いて見ると、二つの説明は同じ動きの別の描写でもあります。 通貨不信の診断が語るのは「ドルは薄められるかもしれない」という価値への疑い、対抗解釈の中心にある中央銀行の買いが語るのは「ドルは凍結されるかもしれない」という置き場としての疑いです。 動機は違っても、ドルを持ち続けることをためらったお金が、薄められも凍結もされない資産へ動いている点は同じです。 どちらが正しくても、2024年秋に見えていたのは、ドルからの静かな退避だったと言えます。

そしてこの物語は、まだ終わっていません。 2026年8月、財務省が長期金利を抑えるために国債の買い戻しを倍増させると、ドルは下落し、ゴールドは4,500ドルへ戻り、「debasement」の見出しが再燃しました。 今回の引き金がインフレではなく、金利を抑え込む財政の手つきだったことも、この物語の続きらしい展開です。 命名から2年、診断は検証されたわけでも、棄却されたわけでもありません。 ゴールドとビットコインが乗っているこの物語がどこまで続くのか、見守りたいと思います。

  1. 責任ある連邦予算委員会(CRFB)の推計で、トランプ案が10年で約7.5兆ドル、ハリス案が約3.5兆ドルの債務増。 ↩